しあわせは子猫のかたち 乙一     1  家を出て一人暮らしをしたいと思ったのは、ただ一人きりになりたかったからだ。自分を知るもの誰も居ない見知らぬ土地へ行き、孤独に気死ぬことを切望した。大学をわざわざ実家から遠い場所に決めたのは、そういう理由からだ。生まれ故郷を捨てるような形になり、親には申し訳ない。でも、兄弟がたくさんいるので、できのよくな息子が一人くらいいなくなったところで、心を痛めたりはしないだろう。  一人暮らしをはじめるにあたり、住居を決定しなくてはいけなかった。伯父の所有する古い家があったので、そこを借りることにした。三月の最後の週、下見のために、その家へ伯父とふたりで出かけた。  それまで叔父とは一度も話をしたことがなかった。彼の運転する車の助手席に座り、目的の住所へ向かうが、話は弾まない。共通の話題がないという、かんたんな理由だけではない。自分には会話の才能が欠如しており、だれとでもかんたんに打ち解けあうという人間ではなかった。 「そこの池で、一ヶ月くらい前、大学生が溺れて死んだそうだよ。酔って、落ちたらしい」  叔父はそう言うと、運転しながら窓の外を顎で示した。  木々が後方へ飛ぶように過ぎ去り、鬱蒼と茂る葉の間に巨大な水溜りが見えた。池の水面は曇り空を映して灰色に染まり、人気のなく寂しげな印象を受ける。あたりは緑地公園になっていた。 「そうなんですか」  言ってから、もっと大袈裟に驚くべきだったと後悔する。伯父はおそらく、ぼくが驚くのを期待していたのだ。 「きみは、あんまり、人が死んだというようなことではびっくりしないの?」 「ええ、まあ……」  ありふれた他人の死に関してそれほど心が動かない。  伯父は、ほっとしたような顔をしたが、その時はまだ、その表情の意味には気づかなかった。  その後も、まるで事務処理のようなぼくの答え方のおかげで、伯父との会話は長くは続かなかった。退屈なやつだと思われたのだろう、伯父がつまらなそうに黙ると、車内に気まずい沈黙が立ち込める。何度、経験しても慣れることができない状況だが、悪気はなかった。ただ、昔から不器用なぼくは、相手とうまく調子をあわせることができないたちなのだ。  しかしすでに、人との接し方で悩むことにもつかれていた。もういい、たくさんだ。これからはできるだけ他人との付き合いは控えよう。家からもあまり出ないようにして、ひっそりと暮らしていこう。道もできるだけ、真ん中を歩くようなことは避けたい。人ごみを離れて、一人でいることの安心さといったらない。これからの一人暮らし、毎日カーテンを閉めて生活しよう。  伯父の所有する家は、何の変哲もない普通の住宅街にある木造二階建てだった。まわりに並んだ民家に比べ、色あせた写真のように古く、押せば向こう側へ傾くかもしれない。家のまわりを一周してみるとあっというまにスタート地点へ戻り、これなら遭難する心配もない。こぢんまりとした庭があり、だれかがつい最近まで家庭菜園を行っていた跡がある。家の脇に水道の蛇口があり、緑色のホースがのびてとぐろをまいていた。  家の中を見ると、家具や生活に用いるほとんどすべてのものがそろっていて驚いた。空き家のようなものを想像していたが、他人の家へ足を踏み入れたような気分になる。 「最近まで、だれかがここに住んでいたのですか?」 「友人の知り合いに貸していたんだ。その人、もう死んでしまったんだけど、身よりのない人だったから、家具を引き取る人がいなくてね……」  伯父は、前の住人についてはあまり語りたくなさそうだった。  さっきまでここで普通の生活が行われており、人間だけが突然すっと消えてしまったような印象だった。古い映画のカレンダー、ピンで壁に貼ったポストカード。棚の中の食器、本、カセットテープ、猫の置物。前の住人の持ち物が、そのままにされている。 「残っている家具、自由に使っていいよ。持ち主はもう、いないんだから」と、伯父。  前の住人が寝室として使っていたと思われる部屋が二階にあった。南向きの明るい部屋で、開かれたカーテンから暖かい日光が入っていた。家具や置物の類を一目見て、前の住人が女性だとわかった。しかも若い。  窓際に植木鉢。枯れておらず、ほこりも積もっていない。だれかが毎日、掃除しているような清潔さに、妙な違和感を感じる。  陽の光は嫌いなので、カーテンを閉めて部屋を出た。  二階の一室が暗室になっており、現像液や定着液が置かれていた。入り口には黒く分厚い幕が垂らされ、光の入る隙間を閉ざす。酢酸の臭いが鼻の奥を刺激し、くしゃみが出そうになる。机の上に、ずっしりとした大きなカメラがあった。前の住人は写真が好きだったのだろうか。  自分で現像するとは、力が入っている。辺りを探すと、写真が大量に出てきた。風景の写真もあれば、記念写真のようなものもある。写っている人物もさまざまで、老人から子供までいた。後で眺めようと思い、手持ちのバッグに入れた。  棚に、現像されたフィルムが整理されている。ネガはそれぞれ紙のケースにまとめられ、マジックで日付が書かれていた。作業机の引き出しを開けようかと思ったが、やめておいた。とっての上に小さな文字で『印画紙』と書かれていたからだ。もしも光に当たった場合、感光して使えなくなる。  暗室を出たぼくは、先ほど入った南向きの部屋が明るいことに気づいた。閉めたはずのカーテンが、なぜか今は開いている。伯父がやったのだろうか。しかし彼はずっと一階にいた。きっと、カーテンレールが傾いていたのだと、その時は結論づけた。  入学式の数日前、その家に移り住んだ。荷物は鞄ひとつだけ。家具は前の住人の物を使わせてもらう。  最初に子猫の声を聞いたのは、引っ越した当日、居間でくつろいでいたときのことだった。声は庭のどこかから聞こえてきた。気のせいだと思い、放っておくと、いつのまにかそいつは家へ上がり込んでいて、人間のぼくよりも家主面してくつろいでいた。両手のひらに収まるような、白い子猫だった。下見のときは、どこかに隠れていたらしい。前の住人が飼っていたペットのようで、飼い主のいなくなった後も、そのまま家に住み着いているのだろう。当然のように家へ上がり込み、歩きまわった。首に鈴がつけられ、澄んだ音を響かせた。  ぼくは最初のうち、そいつの扱いに戸惑った。家にこんなおまけがあるとは、伯父から聞いていない。一人きりになりたかったのに、子猫と暮らさなければいけないなんて反則だ。どこかへ捨ててこようかとも思ったが、そのままそっとしておくことにした。居間に座っていて、子猫がトコトコ目の前を通ると、つい正座してしまった。  その日は隣に住んでいる木野という奥さんが挨拶にやってきた、どっとつかれた。彼女は玄関先に立ち、品定めするような目でぼくを見ながら世間話をした。できるだけこのような近所との付き合いは排除したかった。  彼女は、音のすごい自電車に乗っていた。金属をこするようなブレーキ音が、何十メートル離れていても聞こえてくる。最初は不愉快だったが、そのうち、あれは斬新な楽器なんだと思うことにした。 「私の自電車、ブレーキが壊れかけているのかしら?」と、彼女。 「たぶん、もう壊れているんだと思いますよ」とは言えなかった。  だが、前のこの家で生活していた住人ことに話題が移ると、身を乗り出して聞いた。以前、この家に住んでいたのは、雪村サキという若い女性だった。よく、カメラを持ってこのあたりを散歩し、町の住民を撮影していたという。町の人からは、ずいぶん慕われていたようだ。しかし三週間前の三月十五日、玄関先で何者かに刃物で刺され、命をなくした。犯人は見つかっていない。  ぼくの隣人は玄関の床板をじっと見つめた。自分の立っているところが犯行現場であることに気付き、ぼくはあわてて一歩、後退した。詐欺だ。伯父からそんな話、一度も聞いていない。事件のあった当時、といってもつい最近のことだが、多くの警察がこの家に来て、たいへんな騒ぎだったらしい。 「彼女の子猫、突然、雪村さんがいなくなって、きっと困っているでしょうねえ。餌をあげる人もいなくて。いやだわ、ゴミをあさりはじめたらどうしましょう」  彼女は帰り際、そう言った。  ぼくには子猫が困っているようには見えなかった。毎日だれかが餌をあげているかのように健康そうだった。家のごみ箱に、中身の無いキャットフードの缶が捨てられていた。つい最近だれかが開けたらしい。知らない間にだれかが家へ上がり込んで、餌をあげたのだろうか。  子猫はまるで、雪村が死んでしまっていなくなったことに気付いていないようだった。白く短い毛をなめ、縁側に寝そべり、ずっと以前からそうしていたであろう平和そうな日常を続けていた。それは、子猫が鈍感であるのとは、少し違うように思えた。  眺めていると、しばしば子猫は、そばにだれか親しい人がいるかのように振る舞った。最初のうち、気のせいかと思っていたが、それにしては不自然な行動が多かった。  何もない空中に向かってあどけない顔をあげ、耳をそばだてる。見えない何かからなでられているように、目を細めて気持ちよさそうな声を出す。  よく猫は、立っている人間の足に体をこすりつけるが、その子猫は何もない空間に体を押しつけようとして、空振りして「あれ?」といった感じで転びそうになっていた。そして、何か見えないものを追いかけるように、小さな鈴を鳴らして家中を歩き回った。まるで、歩く飼い主を追いかけているようだった。子猫は、今でも雪村が家にいることを信じて疑っていないようだった。むしろ、新しく入居してきたぼくの方を不思議そうに見た。  最初、子猫はぼくの出す餌を食べなかったが、じきに、食するようになった、そこに至ってようやく、ぼくは家に住む許可を子猫からもらった気がした。  ある日、学校から家に戻ると、子猫が居間で寝そべっていた。子猫は元飼い主の古着がお気に入りであ、いつもそれをベッドにして眠っていた。そのぼろぼろになった服を手に取ろうとすると、くわえて逃げ出すぐらい大事なものらしかった。  居間には、雪村サキが残していった小さな木のテーブルや、テレビがあった。彼女は小物を集めるのが趣味だったらしく、ぼくがこの家に来たときには様々な猫の形の人形がテレビの上や棚に並んでいた。しかし、それらはすべて片付けた。  朝、テレビを消し忘れていたらしい。誰もいない部屋の中に時代劇が流れていた。しかも『大岡越前』の再放送である。テレビの電源を消して、いったん二階の自室へ向かった。  雪村が寝室としていた部屋はそのままにして、ぼくは別の部屋を自室としていた。殺された人の部屋というのは、使うことをためらわれるものがあった。玄関を通る度に、その場で死んだ雪村のことを考えた。彼女が刺された時、目撃者はいなかったが、言い争いをする彼女の声を、近所の人は聞いたという。事件が起こって以来、近所を警察が見回りするようになったそうだ。  暗室にあった大量の写真を眺めていると、憂鬱な気分になった、雪村は町の人間を撮影しながら、歩きまわっていたらしい。彼女の写真には、町の人の笑顔や、喜びの一瞬が切り取られていた。人々の幸福感があふれてくるような写真だった。そういったものを撮ることができたのは、彼女の感覚がその方向に向けられていたからに違いない。光を正視することのできる人だったのだろう。ぼくとは、大違いだ。  食事にしようと思った。一階へ下りて、台所でごはんをよそっている時、ようやく気付く。居間の方から、消したはずのテレビの音が聞こえてくる。いつのまにか電源が入っていた。不思議だった。テレビが壊れているのだろうか。子猫が寝そべっているだけの居間に、『大岡越前』が流れていた。  その現象は、その日だけにとどまらなかった。次の日も、その次の日も、『大岡越前』の時間になると、ぼくのいないうちに、いつのまにかテレビの電源が入っていた。チャンネルを変えていても、目を離したすきに、置いていたリモコンの位置がかわり、時代劇に戻っている。テレビの故障かと思った。しかし、まるでだれかが家の中に潜んでいて、ぼくがいないのを見計らってテレビをつけているような不自然さがあった。時間になると、常に子猫が居間で寝ていた。まるで母親にくっついた子供のような顔で寝転んでいた。毎日『大岡越前』をかかさずに見ている、子猫に慕われた何者かの存在を感じた。  以来、本を読んでいたり、食事をしている時、だれかに見られているような気がした。しかし後ろを振り返っても子猫がうたたねをしているだけだった。  いつもカーテンや窓を閉めるように心掛けていた。開け放した窓から、軽やかな小鳥のさえずりが間違って聞こえたりすると、耳をふさぎたくなる。ぼくに心の平穏を与えてくれるのは、薄暗闇の無関心さと、細菌の生きることを許す湿った空気だけだ。しかしふと気付くと、いつのまにかカーテンや窓が開けれれている。まるでだれかが、「窓を開けて風通しをよくしないと不健康!」と注意しているようだった。不健康な部屋の中に、殺菌作用のある温かい太陽の光と、からからに乾いた新品のタオルのような風が入る。家中を見てまわったが、自分以外には、だれもいなかった。  ある時、ぼくはツメキリを探していた。家のどこかにあるはずだと思い、自分では購入していなかったのだ。雪村だって、爪を切らなかったわけではあるまい。 「ツメキリ、ツメキリ……」  声を出しながら探していて、ふと気がつくと、テーブルの上にいつのまにか、ツメキリが置かれていた、さきほど見た時は、存在しなかったものだ。いつまでたっても探し出すことができないでいた新入り大学生を見かねて、ツメキリの場所を知っている何者かが取り出して置いてくれたようだった。そんな物の場所を知っている人物など、ぼくにはただ一人しか思い浮かばなかった。  まさかそんな馬鹿な、と思いつつ、何時間も考え込んだ。そして、殺されたはずの人間が、実体の無い何かとしてこの世にとどまり続けることを考えた。また、その意思をくみ取り、前の住人の立ち退き拒否を黙認することにした。     2  大学の食堂、みんなから離れたところで一人、食事をしていた。いっしょに食事をするようなわずらわしい友人を作るつもりは、最初のうち、なかった。  そんな時、不意にぼくの前の席へ、男が座った。知らない顔だった。 「きみ、あの殺人のあった家に引っ越した人だよね?」  それが村井だった。ぼくよりも一年上の先輩にあたる。最初のうち、彼の質問に適当な返事をしていたが、悪い人間には見えなかった。人懐っこい性格で、交友関係も広く、だれとでもすぐに打ち解ける人間のようだった。  その日から、ぼくらの付き合いがはじまった。といっても、友人というほどのものではない。ただ買い物へ行ったり、所用で駅のほうへ行く時など、彼の愛車であるミニクーパーに乗せてもらうだけだった。水色の可愛らしい形をした車体は、道に停めていると人目を惹いた。  村井は人望もあり、みんなに慕われていた。ぼくがお酒を飲まなくても、強要することもなかった。彼はよく、多くの人に囲まれて談笑をはじめた。そんな時、ぼくはそっと席を外した。気付く人はいない。みんなの会話に加わるような気分はわかなかった。少し離れたところから会話を聞いているよりは、ただ一人で大学構内のベンチの座り、植木の根元を眺めている方が、落ち着いた。だれかと大勢でいる時よりも、一人でいる時のほうが安らかになれる。  村井の友人たちはエネルギーにあふれていて、よく笑っていた。お金を持っていて、行動力があり、活動的だった、彼らはまるで、ぼくとは違う世界の住人のようだった。  自分は彼らに比べ、もっと下のレベルの生き物であるように感じていた。実際、アイロンがけされていないみすぼらしい服装と、すぐに言葉がつっかえる癖は彼らの笑いの対象となっていた。その上、ぼくは必要なときにしか発言しなかったから、無口で無感動な人間だと思われているようだった。  ある時、彼らは、ちょっとした実験を行った。それは大学構内にあるA棟ロビーでのことだった。 「すぐにもどってくるから、きみはここで待っていてよ」  村井を含めた彼らは、そう言うとどこかへ去って行った。ぼくはロビーに据え付けられたベンチに座り、本を読みながら彼らが戻ってくるのを待った。まわりを大学生たちが騒々しく歩きまわっていた。一時間待ったが、だれも帰ってこなかった。不安になったが、さらにもう一時間、読書を続けた。  そこに村井だけが戻ってきた。複雑そうな顔でぼくを見て言った。 「きみは、みんなにかわかわれていたんだよ。いくら待っても、だれも戻ってこない。遠くからきみを観察するのにあきて、みんなもうずっと前に車で行ってしまったよ」  ぼくは、ああそうですか、とだけ答え、本を閉じると帰るために立ち上がった。 「悔しくないの? みんなきみが不安そうにしているのを、楽しんで観察していたんだよ」と、村井。  しばしばあることなので、半ばどうでもよく感じていた。 「こういうことには、もう慣れました」  彼を残して、ぼくは足早にその場から立ち去った。背中には村井の視線を感じた。  彼らのそばに自分がいてはいけないような気は、最初からしていた。みんな、ぼくがどんなに手を伸ばしても得られないさまざまなものを持っていた。そのため、彼らと言葉を交わした後、ひそかに絶望感を味わったし、憎悪に近い感情を抱いた。  いや、彼らに対してだけではない。何もかもを憎み、呪った。特に、太陽とか、青空とか、花とか、歌とか、そういったものへ重点的に呪詛をつぶやいた。明るい顔をして歩くすべての人間は、すごく頭の悪い馬鹿な奴なのだと思いたかった。そうやって全世界を拒否し、遠ざけておくことで、唯一、安らかになれた。  だからぼくは、雪村の撮影した写真を脅威に思う。彼女の撮った写真にはすべてを肯定して受け入れるような深さがあった。ぼくの通う大学や家を写した写真からも、池や緑地公園の写真からも、光があふれてきそうな力を感じた。子猫の写真や、子供たちがピースした写真から、彼女のやさしさが伝わってきた。雪村の顔をぼくは知らない。しかし、彼女がカメラを構えると、それを発見した子供たちが自分を撮ってと殺到する。そんな光景が想像できるようだった。  もしもぼくが、彼女と並んで同じ景色を見ても、瞳の捉えるものはまったく別のものだろう。雪村の健全な魂は世界の明るい部分を選択し、綿菓子のような白くてやわらかい幸福なフィルターで視界を包み込んでしまう。ぼくの心では、そうはいかない。光に弾き出された影の方ばかり見えてくる。世界が冷たく、グロテスクなものに感じられる。世の中、うまくいかない。ぼくのような奴ではなく、彼女のような人が死ぬ。  大学で味わったひどい気分も、家へもどり、寝ている子猫を裏返したりして遊んでいるうちに消えた。やがて、村井のことを考え出した。ぼくを放置して、村井の友人たちはどこかへ行ってしまった。しかし、彼は戻ってきたじゃないか。  そのことがあってからも、なんとなく村井とは縁を切らないでおいた。以前と変わらず、いっしょに食堂で食事をし、彼の車で出かけた。ただひとつ、変わったことがある。それは、彼がみんなに囲まれて談笑をはじめ、ぼくがそっとその場を離れた時のことだ。彼も静かにみんなから離れ、人込みから遠ざかるぼくを追いかけてくるようになった。 「今度、きみの家へ遊びに行ってもいいかい?」  村井のその提案を、ぼくは断った。あまり人を家へあげたくなかった。しばしば発生する不思議な現象を見られて、彼が驚いてぼくを避けるのではないかという不安もあった。  朝になるとかならず、カーテンが開いている。前の住人の仕業だった。  部屋に日光が入らないように、北向きの部屋を選んで使っていた。それでも、ぼくを外界から守る布切れが開かれてしまえば、部屋はだいぶ明るくなる。残念ながら、カーテンを閉め、薄暗い部屋の中で生活する計画を放棄しなくてはいけないようだった。いくら部屋から光を追い出しても、しばらくすると、いつのまにかカーテンと窓は開けられている。何度も同じことが、繰り返され、ぼくはあきらめた。どうやら前の住人は、部屋に光を入れて空気を入れ替えることに関して、ぼくとは相容れないこだわりを持っているようだった。  夜、布団に入って目を閉じていると、廊下でだれかが歩く気配がした。しんとした暗闇の中、床板のきしむ音が近付く、向かいの部屋で扉の開く音がすると、気配はその中に消える。以前、雪村サキが寝室としていた部屋だった。  不思議とそれらの現象を恐れたりはしなかった。  雪村の姿は見えなかったが、自分の知らない間に食器が洗われていたり、本のしおりが進んでいたりする。長い間、掃除をしていないはずだったがちりひとつ見当たらないのに気付く。きっと、ぼくの見ていない間に、彼女が箒で掃いて掃除をしているのだろう。はじめは気配を感じるたびに戸惑っていたものもやがてなれると当たり前になった。  乾燥した畳に子猫が寝転び、目を細くする。お気に入りの古着に顔をうずめ、眠りこける。子猫はしばしば、見えない何かに向かってじゃれついていたが、きっと遊び相手は雪村にちがいなかった。子猫が見上げている方向を注意深く見たが、ぼくには何も見えなかった。  好みに関するちょっとした対立もしばしば起きた。引越しをした当初、テレビの上には雪村の飾っていた小さな猫の置物があった。テレビの上に物を飾る行為は、ぼくにとって断固として拒否したいことだった。よって、置物は片付けた。しかしそれも、いつのまにかテレビの上に舞い戻っている。何度、片付けても、次の日にはテレビの上にあった。 「テレビの上に物を置くと、振動で落ちたりするし、見ていて気が散るじゃないか!」  言っても無駄だった。  好きな音楽CDをかけていたところ、彼女はその曲が気に入らなかったらしい。ぼくがトイレに行っていたすきに、彼女がコレクションしていた落語のCDに入れ替わっていた。渋い趣味だ。  そのうち、朝、包丁の音で目が覚め、台所へ行くと朝食が出来上がっているようになった。学校から帰宅し、二階の自室へ鞄を置いた後、居間でくつろごうとすると、湯気の立つコーヒーが用意されている。少しずつ、雪村の気配は色彩を増していった。  しかし、ぼくが感じ取れる雪村の存在は、いつも結果のみだった、目の前でコーヒーが用意されることはなく、目を離したすきに変化は起きていた。台所の棚から居間のテーブルへ、どのようにマグカップが運ばれてきたのか疑問に思う。空中をただよってきたのか、転がってきたのかはわからない、重要なことは、ぼくのためにコーヒーを入れてくれるという意思だ。  また、彼女の動ける範囲は、どうやら家と庭だけらしい。ゴミの日になると、ビニールにまとめられた生ゴミの袋が玄関に出ていた。外にあるゴミ捨て場まで出て行くことができないようだ。  ある日、空っぽになったコーヒーのビンがテーブルに出ていた。「あ、買っておけってことか」と思い、ぼくはごく当たり前に彼女の意思をくみ取り、買い物をした。  雪村は幽霊なのだろうか。それにしては、それらしいことなど一度もない。だれかを怖がらせるわけでもなく、殺された恨みをつぶやくわけでもない。半透明の姿を見せるわけでもなく、ただ淡々と、以前からそうしていたであろう生活をひっそりと続けているようだ。幽霊というよりも、たんに成仏していないだけ、と言った方が正しいかもしれない。  見えないけど確かにそばにいる雪村の存在は、暖かく、心にそっと触れるものがあった。しかし、彼女や子猫の存在は、だれにも言わずにいた。  ある時、村井の車で買い物へでかけた。水色の丸い車体は快調に走り、やがていつか伯父と見た池が窓の外に広がっていた。ぼくはよく、その池のほとりを歩いた。それは散歩のためではなく、たんに大学と家をつなぐ通路だったせいだ。自分の爪先以外のものを見て歩くことはめったにないので、それまで、注意深く池を眺めたことはなかった。 「この池で大学生が溺れたという話を聞きました」  ぼくのつぶやいた言葉に、村井ははっとしたように身をこわ張らせた。 「それ、おれの友達だよ」彼はハンドルを握り、前方に目を向けたまま、死んだ友人のことを話し出した。「そいつとは、小学生時代からの親友だった……」  車の速度が次第に落ちて、やがて道の脇に停車する。彼の意識ははるか遠く、生きていた頃の彼を見ているようだった。 「彼と過ごした最後の日、ぼくらは喧嘩をしてしまったんだ。ちょっとした、酒を飲んだ時のいざこざだった。その夜、知り合いたちと盛り上がって、油断して飲みすぎたんだ。酔った勢いで、おれはあいつにひどいことを言って傷つけてしまった。次の日の昼、池に浮いているあいつが発見された。警察の話では、早朝に、よって池に転落したそうだ。溺死だった。謝りたくても彼はもういない。本当に、もし、できることなら、もう一度会って話をしたい……」  村井の目は赤くなっていた。 「大丈夫ですか?」  彼は目を閉じ、両手でそっと顔を覆った。 「ちょっと、コンタクトがずれただけさ……」嘘をついて、彼は言葉を続ける。「死んだおれの友達、きみに似ていたよ。外見はまったく違うんだけど……。あいつも、人間関係でひどい目にあった時、『こんなことには慣れている』と、あきらめたような顔をして言ったんだ。このひどい世の中がこれ以上よくはならないと言いたげだった……」  彼がお酒を他人に強要しないのもそのせいだろうか。雪村が捨てずにとっておいた古新聞、たしか家に残されていた。事故があった次の日の新聞を探してみようかと思った。何か載っているかもしれない。  後日、池のほとりを歩く時、注意深く彼の亡くなった友人を探した。雪村のように、今でもいたりして、と思っていた。  ある時、学校からもどると、洗濯物が干してあった、ぼく自身には、洗濯をした記憶がない。雪村が洗濯をして、庭の物干し台に干してくれたのだ。ぼくは縁側に腰を下ろし、風にゆれる洗濯物をながめた。明るい日差しの中、白いシャツが光っていた。  庭に作られた小さな畑にいつのまにか芽が出ていて、大きく成長していた。雪村が人知れず家庭菜園を続けていたことに、長い間、ぼくは気付かなかった。庭の草木など、立った今はじめて見たような気がした。  よく観察すると、庭の植物は水滴を滴らせ、地面にできた水溜りは青空を映していた。雪村がホースをつかって水をやったのだろう。ぼくは知らなかったが、それまでも頻繁に、そうしていたにちがいない。  彼女は植物が好きだった。庭から摘んできた草花が、しばしば花瓶にいれられていた。気付くと、ぼくの部屋の机にも、名前のわからない花が飾られている。以前なら、よけいなことを、と思ったかもしれない。花など、ぼくには憎しみの対象でしかなかった。しかし不思議と、雪村が花瓶に飾るのを想像し、それを許容することができた。  すでに死んでいるというのに、いったい、何やってんだか。彼女はずいぶんと暇らしく、時々トラップを仕掛けてぼくをおちょくった。いつのまにか靴の紐を固結びにして困らせたり、まだ六月が終わっていないのにカレンダーを七月にしたり、学校へ持っていく鞄にそっとテレビのリモコンを入れたりした。意味不明だ。  家でカップラーメンを作っていたところ、家中の箸およびフォークを彼女に隠されたことがある。三分たっても箸がないことに気付き、ぼくはあせって家中を探した「はやく箸を見つけないと、麺が伸びてしまう!」というせこい窮地に立たされた。結局、ラーメンは二本のボールペンを箸がわりにして食べた。  そんな時、子猫がそばに座って、濁りのない瞳でぼくを見ていた。途端に、自分はいったい何をやっているのだろう、という気持ちになり、人間として落ち込んだ。そしてまた、きっとすぐ近くに雪村がいて、今、おかしくて笑っているにちがいないという確信を抱いた。子猫と彼女はほとんどいつもセットのようだった彼女の姿は見えないので、よくはわからなかったが、子猫はできるだけ飼い主の後を追いかけているようだ。だから、見えない雪村の位置は、子猫が知らせてくれた。雪村における子猫の存在は、猫の首についた鈴と同じようなものだった。 「きみのやることは、幽霊らしくない。たまには、おどろおどろしいことでも、やったらどう?」  子猫のいる辺りを向いて、幾分、意地悪く言った。  次の日、テーブルの上に、彼女のものらしい恐怖の書き置きがあった。紙に、『痛いよう、苦しいよう、さみしいよう……』という小さな文字をびっしり書こうとして、飽きて途中でやめたようだ。紙面が半分も埋まってない上に、最後の言葉が『わたしもラーメン食べたかったよう』だった。ともあれ、それは、彼女がぼくにあてたはじめての手紙で、捨てずに残しておこうと思った。  その後も、見えない雪村に対して何か話しかけるわけではないのだが、不思議と通じ合ってしまった感があった。  毎週、月曜日の深夜になると、ぼくの知らない間に台所の電気がついて、ラジオの電源が入っていた。どうやらこの家では、台所がもっとも電波が入りやすいようだった。毎週その時間は、雪村の好きなラジオ番組をやっていた。  それはなかなか寝付けない夜のことだった。外は風があるらしく、耳をすますと木の枝のさわぐ音が聞こえる。夜の空気に、どこからか人の声。ラジオの音だと気付き、起き上がって階段を下りる。白い蛍光灯の明かりが目に入り、テーブル上に置かれた小さな携帯ラジオを見つけると、ぼくはわけのわからない安心感に包まれた。  雪村がラジオを聴いていた。子猫はいない。お気に入りの古着をベッドにして夢を見ているのだろう。しかし、子猫がいなくても、彼女が確かに、そこでラジオを聴いていることがわかった。スイッチが入っていることを示す赤いランプ。軽く引かれた椅子。  実際に、姿が見えたわけではない。しかし、椅子に腰掛けて頬杖をつき、足をぶらぶらさせながらお気に入りのラジオ番組に耳を傾ける彼女が、一瞬、見えたような気がした。  ぼくは隣に腰掛けた。しばらく目を閉じて、スピーカーから流れる音に聞き入る外の風はいよいよ強くなり、まるで雪山に閉じ込められたような、しんとした気持ちになる。彼女がいるあたりにそっと手を伸ばしてみた。何もないただの空間。だが、温かい何かを感じた。雪村の体温かもしれない、と思った。     3  六月の最後の週のことだった。その日、午前中はよく晴れており、太陽を遮るようなものはなかった。雨が降り出したのは夕方のことで、ぼくはずぶ濡れになりながら大学から帰ることになった。当然、傘を持って家を出ていなかったが、途中で買うまでもないと思っていた。濡れて困るものなど、持っていなかった。  いつも通る池のほとりにはだれもいない。歩道の脇に、一定その間隔をあけて木のベンチが、寂しそうに池の方に向けて設置されている。雨にけぶる池の向こう岸はかすみ、水面と森との境に靄がかかっていた。生物の気配はなく、ただひそやかに雨音だけが池と森を支配していた。どこか現実を超えたその光景に目を奪われ、ぼくは雨の中、しばらくじっと水面を眺めていた。初夏だというのが嘘のように寒かった。  目の前に広がる静かな池が、村井の友人を連れ去った。灰色の空を映した大量の水。いつのまにか吸い込まれるように、ぼくは池に向かって歩いていた。低い柵に遮られるまで、そのことに気付かなかった。  村井の友人が今でもこの池のそばにいるんじゃないかという思いが、消えずに残っていた。遺体は回収されたという。でも、雪村のような存在になって、まだこの池で浮いたり沈んだりを繰り返しているのではないか。もっとよくこの辺りを探してみる価値があると考えていた。人間の目には見えなくても、ひょっとすると子猫なら探し出すことができるかもしれない。村井は、死んでしまった友人と話をする必要がある。ぼくはそう思った。いつか、ぼくらは子猫をつれて、ここへ来なくてはならない。  池を離れ、家へ向かって歩き始める。おそらく家へもどると、玄関にバスタオルが用意されているだろう。彼女は、ぼくが濡れて帰ってくることを予想し、乾いた服を出して待っているかもしれない。体が暖まるような熱いコーヒーをいれるかもしれない。  わけのわからない切なさに襲われる。この生活がいつまで続くのかという問題を考える。いつか終わりがやってくる。彼女はそのうち、行ってしまうのだろう。やがてだれもが帰っていく場所へ。では、どうして今すぐにそうしないのか。絶命した瞬間にそうしなかったのか。後に残される子猫が心配だったのだろうか。  警察の話では、雪村を刺したのは強盗だということだ。犯人はまだ見つかっていない。時々、警察の人間が家にやって来て、話をして帰っていく。彼女は明るくだれにでも好かれていた反面、同世代の親しい人間はこの地方にはいなかったそうだ。知り合いの犯行というわけでもなく、ただ不幸にも、通り魔的に、家へやってきた強盗に襲われてしまったらしい。それは、雷の直撃を受けて死んだり、飛行機事故で死んだりするのと同じ、やるせない偶然だっただろう。  世の中には、絶望したくなるようなことがたくさんある。ぼくも、村井も、それに対抗する力はなく、ただはいつくばって神様に祈ることしかできない。目を閉じて耳をふさぎ、、体を丸めて悲しいことが自分の上を通り過ぎるのを待たなくてはいけない。  ぼくは雪村のために何かできるだろうか。  考え事をしながら家へたどり着き、玄関に置かれていたバスタオルを受け取る。乾いた服に着替え、湯気の立つコーヒーを口に含んだ時、はじめて頭痛がすることに気付いた。ぼくはすっかり風邪をひいいていた。  二日間、布団の中ですごすはめになった。意識が朦朧とし、頭の中に鉄球が入っているような重い痛みに苦しんだ。体中の筋肉が水を吸った綿のようになり、その二日間、ぼくは世界でも最も鈍重な生物と化した。  しばしば、子猫が寝込んでいるぼくの上に飛び乗った。布団の上から子猫の小さな四本足を感じ、鳴き声を聞くと、かすかすになりかけていた心がそっとやわらいだ。子猫はもう、最初に会った時と比べて、子猫とは呼べないくらい大きく成長していた。  雪村が看護してくれた。眠りから覚めると、額には濡れたタオルが載っていた。枕のそばに水の入った洗面器があり、水差しとバファリンが置かれていた。  立ち上がる気力が出ず、ただ瞼を下げて眠りに落ちるしかない。まどろんでいると、雪村の歩く気配を感じた。廊下でおかゆをつくる彼女、階段をあがってくるかすかな音。それについてまわる鈴の音。子猫の首についているやつだ。彼女がぼくのすぐそばに腰をおろし、じっとぼくの寝顔を見ていることもわかった。やさしげな視線を感じた。  三十九度の高熱の中で、夢を見た。  雪村と子猫とぼく、二人と一匹で池のほとりを歩いている。空は高く深い青色で、森の木々が背の低いぼくらを圧倒するように立っていた。二人と一匹は太陽の光を全身で受け止め、レンガの道にくっきりと三つの濃い影ができた。池は鏡のように澄み渡り、水面の裏側にもうひとつ、精密に複製された世界が見えた。一歩あるくごとに、空を飛べるんじゃないと思えるほど、軽い体を感じた。  雪村は体に似合わない大きなカメラを首からぶら下げて、いろんなものを撮っていた。ぼくは彼女の顔も、身長も知らなかった。しかし夢の中の彼女は、以前からずっと知っていたような顔で、ぼくはそれが雪村に間違いないことを悟っていた。彼女は早足で歩き、ぼくをせかす。もっといろんな物が見たい、写真に収めたい、とでも言うような、純粋な好奇心と幼い冒険心。  人間たちから少し遅れて、子猫が小さな歩幅で一生懸命追いつこうとする。風が心地好く、ピンとした子猫のヒゲがゆれる。  太陽が池の水面に反射し、宝石をばらまいたように輝く。  目が覚めるとそこは真っ暗な自分の部屋で、車が排気ガスを吐きだす音が外から聞こえてきた。時計を見ると夜中、額を冷やしていたタオルがかたわらに落ちていた。  たった今、見た夢の、あまりの幸福さに、ぼくは泣き出してしまった。雪村が生きていたらいいのに、という意味で悲しいのではない。  絶対に見てはいけない夢だった。どんなに手をのばして望んでも、指先には触れることのできない世界。そこは光にあふれているが、残念ながらぼくはそこに受け入れられない。布団に上半身を起こし、頭を抱え、何度も嗚咽をもらした。涙がぽろぽろ落ちて、布団に吸い込まれた。雪村や子猫と暮らすうちに、いつのまにか変化してしまっていたらしい。普通の人と同様に、幸福な世界で生きていけるんじゃないかと、勘違いしていたようだ。だから幸福な夢を見てしまう。目が覚めて現実に気付かされ、耐えきれず胸をかきむしる。そうならないために、そんな世界を敵視し、憎み、自分を保っていたというのに。  いつのまにか部屋の扉が開いており、子猫がかたわらでぼくを見上げていた。おそらく雪村もそばにいて、弱気な病気の大学生を興味深げに眺めている。なぜそんなにへこんでいるの?彼女が首をかしげているような気がした。 「だめなんだ。生きられない。がんばってみたんだけど、どうにもうまくいかなかったんだ……」  雪村が心配そうな顔をして、そばに座った。見えないが、そう感じた。 「子供のころ……、今でもほとんど変わらないけど、ぼくは人見知りの激しい子だった。親戚たちが集まるようなときでも、ぼくはだれともしゃべらなかった話すのが、そのころから下手だったんだよ。弟がいるんだけど、彼はそんなことなくて、親戚とも楽しくしゃべっていた。彼はみんなから好かれていて、可愛がられていた。うらやましかった。自分もそうなりたかったよ……」  でも、だめだった。無理だったのだ。どんなにがんばってみたところで、弟のようには振る舞えなかった。みんなに好かれたいと願うには、あまりにも不器用すぎた。 「綺麗な叔母さんがいていて、それは父の妹だったんだけど、ぼくはその人のことがすきだった。叔母は弟がお気に入りで、よくいっしょに遊んだり、笑いながら話をしていた。ぼくも交ぜてもらいたかってけど、できなかった。いや、一度、二人の会話に加わったことがある。胸がどきどきした。叔母がぼくに話しかけてくれたけど、大人が望むような子供らしい無邪気な答えは、何もできなかった。そして彼女は、失望したような顔をしたんだ」  胸の奥に重い苦しみが宿り、息がつまりそうになる。雪村がじっとぼくの顔を見つめている。 「自分では、一生懸命やったつもりなんだ。でも、だめなんだよ。受け入れられない。この世界は、ぼくのような、器用になんでもできない人間が生きていくにはつらすぎるよ。それなら、何も見えない方がましだ。明るい世界を見せられると、逆に、あまりに薄暗い自分の姿を浮き彫りにされたようで、胸がつぶれそうになるんだ。そんな時、いっそのこと、目をえぐりだしたくなる」  頬にぬくもりを感じた。すぐそばにいる人の、手のひらの温かさだということはわかっていた。でも、ぼくはそれを忘れようと努力した。  ある日、子猫がいなくなった。夕食の時間になっても姿が見えず、子猫がいつもベッドとして愛用していた雪村の古着だけが、ぽつんと放り出されていた。ぼくはそれを折り畳み、部屋の隅に片付けた。散歩に出かけたにしては、あまりにも帰るのが遅すぎる。雪村は家と庭から出られないため、外へ探しに出かけることができない。いろいろなものを散らかして、子猫のいなくなったことに対する不安と困惑を表現していた。  迷子になたのだろうか。ただそれだけなら、どんなにいいだろう。ぼくは心配でたまらず、近所を探して歩くことにした。頭の中では最悪の結末を想像し、つい地面に横たわる冷たくなった子猫を探してしまった。猫や犬といった動物は、しばしば自動車によって平たい形状にされるものなのだ。  恐怖が胸にこみあげてくる。ぼくの心の中で、思いのほか大きな部分を子猫が占めていたことに改めて気付かされる。角を曲がる度、綺麗な地面を見て、ほっと胸をなでおろす。なんどかそうしていると、後ろで車のクラクションが鳴った。振り返ると、村井の乗ったミニクーパーがあった。運転席に駆け寄る。 「前の住人の残していった猫、ぼくが引き継いで飼っているのですが、いつまでも帰ってこなくて、心配で探しているんですよ。白い色のやつなんですけど、村井さん、どこかで見かけませんでしたか?」 「きみがペットを飼っているなんて初耳だ。野良猫ならさっき見たけど茶色だった。白色の子猫はまだ見てないよ」と村井。  ぼくが落胆したのをみかねたのだろう、彼も子猫の捜索を手伝うことになった。ひとまずミニクーパーをぼくの家に置き、歩いて近所を探しまわることにする。幸い、車を停めるスペースはあった。ぼくらは懐中電灯を使って、夜まで子猫を求め歩いた。  しかし見つからない。しかたなく、ぼくらは家に戻った。家の中は散らかっていた。雪村も心配していたに違いない、つけたテレビを消さなかったり、出したものを放り出してそのままにしていた。片付けられないでそのままにされた柵を見ると、何も手につかないといった感じだった。  村井を、家にあげるのははじめてだった。彼はときどき、ぼくの家に来たがったが、いろいろな理由をつけて断っていた。  二人で家にもどり、汗にまみれた顔を洗っていると、お茶が二人分、居間のテーブルに用意されていた。村井はそれを不思議がった。 「さっき見た時は、このお茶、なかったよね? きみはおれといっしょに洗面所にいた。だれがお茶を用意したの?」彼は首をひねった。「とにかく、今日はつかれたよ。ビールでも飲みたいな。景気づけにさ。きっと見つかるよ」  お酒の類は置いていなかったので、あるいて八分の酒屋までぼくが買いに行くことになった。村井はつかれて一歩も動けないようだった。店で、買い慣れないお酒を選んでいる間、家で待っている彼のことを考えていた。雪村から不可解な現象を見せられ、悪いいたずらをされていなればいいが、と心配した。その夜は、ビールを飲んで解散した。 「子猫、見つかったら、いつか触らせてね」  村井は帰り際にそう言った。彼が帰ると、散らかり放題になっている家の後片付けをした。  子猫がいなくなると、雪村がどこにいるのかわからない。鈴の音が聞こえないのはさびしかった。家の中のどこかに隠れているんじゃないかと、彼女は考えたのだろう。テレビや棚の位置が動いていたのは、おそらく裏側を探したためだ。  二階に上がると、暗室の黒い幕が半開きのままになっていた。雪村はまだ、時折この暗室を使って何かをしているようだった。暗室の中まで子猫を探したらしい。いろいろな物の位置が動いていた。引き出しが開き、印画紙が光に当たって、使えなくなっていた。それは、幸福な夢を見てしまい、だめになってしまった大学生のことを連想させた。  子猫が帰ってきたのは次の日のことだった。  ぼくは、雪村の散らかした古新聞を片付けていた。彼女が捨てずにためていた新聞で、黄色く変色しかけていた。なぜ古新聞なんか、と思った。そのとき、庭のどこかから、子猫の鳴き声が聞こえたような気がした。  半ばあきらめかけていたので、たった今、聞こえた声が信じられなかった。もう一度、庭の方から確かに子猫の声。かすかに鈴の音。間違いないという確信を得るとともに、呼吸ができないほどの嬉しさを感じた。泣きたくなるくらい安堵した。  サンダルをはくのも面倒で、縁側から直接、はだしで庭へ下りる。見回したが、背の高い雑草と家庭菜園の熟しかけているトマト以外は何もない。その時、塀の向こう側をまだ探していないことに気付いた。庭は塀に遮られ、その向こうは木野という一家が住んでいた。うるさい自転車に乗る、あの木野さんだ。塀のどこかに穴があって、そこから向こうへ行ったきり、もどってこられなくなったのかもしれない。  隣の木野家を訪ねるまでもなく、直接に奥さんの方からうちへやって来た。彼女は腕に、子猫を抱いていた。ぼくはその日の午後いっぱい、子猫のことや、雪村のこと、村井のことを考えた。子猫の鳴き声をかたわらで聞きながら、決心を固めた。 『謝りたくても、彼はもういない』  死んだ友人のことを思いながら、そう言った村井のことを思い出していた。  ぼくらは、あの池へ行かなければならない。そう強く感じていた。     4  次の日。大学の終わる夕方、陽は傾き空に赤みがさす人通りが少なくなり、池のまわりにはぼく以外、だれもいなくなる。静かだった。風もなく、揺らぎもしない目の前の水面が、一切の物音を吸い込んでいるように思えた。まるで一枚の強大な鏡が広がっているように、池は沈黙していた。  池の縁に一定の間隔で立っている街灯が、明かりをつける。池へ飛び込もうとするような勢いで、枝葉をつけた森の木々。並んでいるベンチのひとつに座っていると、ようやく村井が現れた。 「こんなところへ呼び出して、どうしたんだい?」  彼は車を緑地公園の駐車場へ停め、歩いてここへ来ていた。体をずらしてスペースを空けると、彼もベンチに腰掛けた。その時、ぼくの持ってきていた鞄の中から、子猫の鳴き声が聞こえた。 「子猫、見つかったみたいだね」と彼。  うなずいて、鞄を膝の上に載せた。その鞄は、猫を入れるのには十分な大きさを持っていた。かすかに鈴の音がして、動物が鞄の内側をひっかくような、カリカリという音がする。 「今日、村井さんを呼び出したのは、話をしたかったからなんです。ひょっとすると、信じてもらえないかもしれない。でも、この池で親友をなくしたあなたに、どうしても話しておきたいと思いました」  そしてぼくは、雪村や子猫の話をはじめた。大学へ入学し、伯父の家に住みはじめたこと。殺されたはずの先住者が、まだ立ち退いていなかったこと。昼間、ぼくがカーテンを閉めても、彼女がそれを許さなかったこと。子猫が、見えない彼女を追いかけ、彼女の古着を愛したこと。  辺りが暗さを増し、ぼくらは街灯の明かりの中、ほどんど身動きしなかった。村井は口を挟まず、ただぼくの声を聞いているだけだった。 「そんなことがあったのか……」話し終えると、彼は長い息を吐いた。「それで、ただそれを報告するためだけにおれを呼び出したのか?」  村井は不機嫌そうな声を出す。話を信じていないことは明らかだった。  ぼくは彼の目を見るように努力した。本当は目をそらし、今の話は冗談だったと言いたかった。でも、何もかもを丸くおさめるということはできない。この問題を避けてはいけないと感じていた。 「お隣の木野さんが、子猫を抱いてうちにつれてきてくれた後、急に、いろいろなことがひっかかって思えてきたのです。たとえば、なぜ、雪村さんは、印画紙を感光させて、だめにしたのでしょうか」 「雪村って、君の話に出てきた、死んだはずの人間だよね」 「一昨日、子猫のいなくなった日、家の中を雪村さんが散らかしていた。知らないうちに、いろいろな家具が動くってことよくあることでした。だから、すぐには気付かなかった。暗室のものを動かしたのは、いつも通り、彼女の仕業だと思っていました。でも、彼女がわざわざ印画紙をだめにするような不手際をおかすでしょうか。印画紙の引き出しを開けたまま、暗室の幕を閉めていなかったんですよ。こうは考えられないでしょうか。暗室の中で、勝手のわからないだれかが何かを探しものをしているうちに、光に当ててはいけない印画紙を出してしまった。そのだれかは、写真の知識もなく、印画紙のことなどわからない。見た目は普通の、白い紙ですからね。そんな時、突然、家の住人が帰ってきて、ろくに片付けないまま、暗室を後にした。つまり、暗室のものを動かしたのは、雪村さんではなかったのではないか、そう思えてきたのです」 「待ってくれよ。さっきから、雪村がどうとか言っているけど、幽霊なんて、きみの作り話なんだろう?」  彼は、その場の真剣な雰囲気をなんとか崩そうと、笑いながら言った。しかし、池や森の静謐な空気が、それを許さなかった。 「村井さん、なぜ一昨日の夜、ビールを飲もうと提案したのですか。それは、ぼくにはお酒を買いに行かせて、家出一人になりたかったからではないですか。ぼくがお酒を飲まないということ、知っていましよね。うちにアルコール類を置いていないこと、あなたは知っていた。ぼくにお酒を買いに行かせて、家の中を探す時間が欲しかったのではないですか?」 「なぜおれが、そんなことを?」 「あなたにとって何か気になるものが、あの家の中にあったのでしょう。村井さんがあの夜、暗室で見つけ、持ち出したもの、それは、写真のフィルムですね。ぼくを外に出し、あなたは家の中で、探し物をしながら歩いていた。すると二階の一画に暗室がある。うまい具合に、日付を書かれて整理されたフィルムが、そこに保管されていた。あなたは目的の日のフィルムをすぐに見つけることができた」 「見ていた人でもいるのかい?」 「いたのですよ。ぼくがいない間、暗室で村井さんが目的のものを見つけた時、あなたの後ろには雪村さんが立っていたのです。あなたはその時、家の中に一人きりだと思っていたのでしょうが、本当はもう一人いたわけです。きっと彼女も、あなたの目的を測りかねたでしょう。でも、あなたが探したフィルムの日付を見て、彼女はぴんときた。そして、その写真を撮った翌日の新聞を探した。昨日、彼女が片付けず、引っ張り出したままにしていた新聞が、これです」  ぼくは古い新聞を取り出した。目の前に広がる大きな池で、前日の昼ごろ、池に浮かんでいる大学生が発見されたという記事。村井の友達の死亡記事だ。 「酔っ払って、池に落ちたということで、この事件は収まりました。でも、本当は、村井さんがお酒を飲ませて、この人を池に突き落としたのですね。事件の前後、あなたは彼と喧嘩をした。そのいざこざが動機だったのではないですか」  彼の視線に、胸がつまるような息苦しさを感じる。唯一の友人である彼に、こんな話をしなければいけない運命を呪った。心を保護する粘膜がやぶけ、血が滲み出す。 「証拠があるのかい」  ぼくは写真を取り出した。雪村の撮影したものだ。暗室に残されていたフィルムと、家の下見の時に手に入れた写真を突き合わせた。その結果、なくなったフィルムに写っていた写真を推測して持ってきていた。  それは池を撮影した写真で、朝の光があまりに美しく、胸を焦がすような気持ちにさせられた。池のほとりに可愛らしい形をした車が駐車され、それを主人公に見立てて雪村がシャッターを切ったのは明らかだった。 「あなたが暗室から持ち出したフィルム、彼女はすでに現像して、焼いていました。しっかりと、村井さんの車が写っていましたよ、ナンバーまで読める。太陽の角度から、時間は早朝であることがわかる。酔った大学生が池に落ちた推定時刻の前後、そばに駐車していた車を、偶然、撮影してしまったのですね。あなたは、写真を撮られたことを知った。そして、彼女が写真の意味に気付いて公表するのを恐れた。友人との喧嘩は知り合いに見られていたし、なんとかして、車の写っているフィルムをうばいたい」  彼は何も言わず、ぼくを見ていた。 「ここからは先は、ぼくの思い過ごしかもしれませんが、聞いてください。村井さん、あなたはそのひの朝、写真を撮った彼女の後をつけた。住所を知り、数日後、機を見て家をおとずれる。玄関先で、刃物を見せておどした。フィルムをうばうだけのつもりだったが、暴れて言うことを聞かなかったので、さしてしまった。サングラスかなにか、かけていたかもしれない。だから彼女は、あなたが暗室で不振な行動をとるまで、自分を殺した犯人の顔に気付かなかった」  きどい気分だった。いつのまにか大量の汗をかいていた。 「彼女を刺した後、あなたは逃げた。目撃者はおらず、つかまることはなかった。あの家に残された問題のフィルムが気がかりだったかもしれません。でも、警察がフィルムにきづかないまま、彼女の死を強盗の犯行であると断定した時あなたはほっとした。もう、親友ノシと自分をつなぐ写真について、気付くものは存在しないはずだった。無理をしてフィルムを手に入れる必要はなくなった。家のまわりは、警察が時折見回りをしていたので、勝手に中に入って取ってくるような目立つような行動もできなかった。そんな時、あの家にぼくが引っ越した。最初は、たんなる興味からぼくに近づいたのかもしれない。しかし、もしもぼくの家に入り込むことができて、中を自由に探しまわることができたら、その時はフィルムを探し出そう。そう考えていたのではないですか。フィルムの意味に気付かれる可能性は低いかもしれないが、やはりあなたは、自分の犯行の跡を完全に消すという誘惑を拒否できなかった」  口がからからに渇いていた。 「村井さんが、なくなったお友達について、本当はどんな感情を持っていたのか、ぼくにはわかりません。少なくとも、車の中であなたの話を聞いた時、本当に悲しんでいるように見えました。もし、あなたが後悔しているのであれば、ぼくは自首をすすめようと思い、今日こんな話をしたのです。」 「やめてくれ。とにかく、きみは考えすぎだよ……」  彼はそう言うと立ち上がりかけた。  膝の上に載せた鞄の中から、子猫の鳴き声が聞こえる。 「村井さん、いっしょに猫を探して歩いてくれた夜のこと、おぼえていますか。ぼくはあなたに、こう伝えましたよね。『前の住人の残していった猫、白い色のやつなんですけど、どこかで見かけませんでしたか?』と。するとあなたは、こう答えた『野良猫ならさっき見たけど茶色だった。白色の子猫はまだ見てないよ』」 「それがどうしたの?」 「ぼくも、すぐには気付きませんでした。飼っている猫、ずいぶん成長したのに、まだ心の中では『子猫』と呼んでいたものですから。でも、その時はたんに、うちの『猫』と言いました。だれも『子猫』だなんて言ってない。それなのにあなたは、いなくなった猫のこと、『子猫』と表現した。これはなぜでしょう。もしも最近、実際にどこかでうちの猫をみたのであれば、『子猫』とは言えないはずです。でも、あなたは『子猫』と言った。なぜなら、あなたはまだ猫が小さい時、一度、見ていたからです。あなたはその時の小さな子猫が目に焼き付いていたため、つい『子猫』と表現してしまった」  村井は悲しそうな目でぼくを見た。まるで何かを嫌がるように、首を横に振った。 「写真のがおれの車だとしても、それを写したのが友人の死んだ日だという証拠はない。その写真には、日付けがない。フィルムのほうに日付が書かれていたからといって、それが実際、その日に撮影されたものだとは限らない。記入された日付は嘘かもしれない。それともきみは、本当に幽霊とか魂といったものを信じているのか?」  鞄から、再度、猫の鳴き声が聞こえてきた。小さな鈴の音。 「よかったじゃないか、猫、見つかって」  ぼくは鞄を開けて、中がよく見えるように彼へ差し出した。鞄は空っぽで、一見、何も入っていないように見える。鞄に手を入れると、手のひらに、何か小さな熱の塊を感じる。  感触があるわけではない。ただひたすらに、生きているという小さな暖かい気配。  鞄の中の、何もない空間から、子猫の鳴き声とすんだ鈴の音が聞こえてきた。音源になるものなど、何もないのに。 「さあ、出ておいで」  そういうと、空気でできた見えない子猫は、鈴を鳴らして鞄を出る。ベンチの脇に下り立つと、動けなかった欲求を晴らすように歩きまわった。それが見えたわけではない。鳴き声と鈴の音が見えない子猫の位置をぼくたちに伝えていた。  足下を子猫の鳴き声だけが駆けまわると、村井はベンチに座り直した。頭を深く垂れ、両手で顔を覆う。  昨日、隣の家の奥さんは、死んでしまった子猫を胸に抱いてうちへきた。ブレーキが壊れた自転車に乗っていて、急に飛び出してきた猫を、よけきれなかったのだ。  ぼくと雪村は悲しんだ。不思議なことが起きたのはその時だった。子猫が愛用していた雪村の古着は、折り畳んで部屋の隅に片付けていたはずだった。しかし、知らないうちに、子猫がくわえて遊んだ後のように、元気に広がっていた。すぐそばに、鳴き声と鈴の見えない音源が存在することに、ぼくは気付いた。子猫は家へ帰って来ていたのだ。雪村のように、姿は見えなくなっていたが……。     5  村井が大学にこなくなって一週間。  朝、なかなか目が覚めないと思ったら、カーテンが開いていなかった。それに気付いた時、悲しい予感がした。  布団を出て、家の中を見て歩く。素足に板の間が冷たい。しんと静まり返った家の中、冷蔵庫の低い振動音だけが聞こえる。  ふと、子猫の鳴き声がした。まるで親を見失った子供のように、戸惑いと不安の入り混じった声を出しながら、家の中を歩きまわっているようだった。悲しい子供の声を聞きながら、ぼくは、彼女がもうここにはいないということを知った。  子猫は雪村を見つけることができず、探し求めているのだろう。子猫にとって、今日、本当の意味ではじめて飼い主と引き離されたのだ。  椅子に座る。雪村が夜中、ラジオを聴いていたテーブルだった。そこで長い間、彼女のことを静かに考え続けた。  いつかこういう日がくることは知っていた。そしてまた、そのとき激しい喪失感に襲われることも予想していた。  ぼくはわかっていた。ただ、最初に戻っただけなのだ。これで当初の予定通り、窓を閉め切って箱のような部屋に閉じこもることができる。  そうすればもう、このような悲しいことにならない。  何かと関わるからつらいのだ。だれにも会わなければ、うらやむことも、ねたむこtも、憤ることもない。最初からだれとも親しくならなければ、別れの苦しみを味わうこともない。  彼女は殺された。その後で、はたして何を考えながら暮らしていたのだろう。自分の受けた仕打ちに絶望して、泣くことはあっただろうか。そのことを考えると、胸がつぶれそうになる。  いつも思っていた。自分の残りの寿命を、彼女に分け与えることができればいいのに。それで彼女が生き返るのであれば、ぼくは死んでしまってもかまわない。彼女と子猫がしあわせにしているのを見られたら、他に何も願うことはない。  そもそも、ぼくが生きていることにどのような価値があるというのだろう。なぜぼくではなく、彼女が死ななくてはならなかったのだ。  テーブルの上に見知らぬ封筒に気付くまで、かなり長い時間を要した。ぼくは弾かれるようにそれをつかんだ。シンプルな柄の、緑色の封筒だった。あて先には彼女の字で、ぼくの名前が書いてある。差出人は、雪村サキ。  震える指先で封筒を開けた。中には、一枚の写真と、便箋が入っていた。写真には、ぼくと子猫が写っている。ぼくは子猫といっしょに寝転がり、とても幸福そうな顔で眠っている。その顔は、およそぼくがこれまで生きてきた中で見た、どんな自分の顔よりも安らかな顔をしていた。鏡の中にもいない、これは彼女の瞳に入った特別なフィルターを通したものだった  便箋を読む。 『勝手に寝顔を撮って、ごめん。きみがあんまりかわいい顔で眠っているものだから、つい撮ってしまったよ。  こんなふうに、きちんとした手紙を書くのは、はじめてだね。ちょっと不思議な気がするよ。私たちの間には、知らないうちにコミュニケーションが成り立っていた気がしていたから、手紙なんて必要ないと思っていた。ふと気付くと、二人と一匹で寄り添うように暮らしていたもの。  でも、わたしはそろそろ行かなくてはいけない。ずっと、きみとか、子猫のそばにいたいけど、それはできないんだ。ごめん。  わたしが、どれだけきみに感謝しているか、気付いてないだろ。わたしはすでに死んでいたけど、すごく楽しい毎日だった。きみに会えて、本当に良かった。神様は粋だね、こんな素敵なプレゼントをしてくれた。ありがとう。わたしたちはお互いに、何かを与えあったり、分けあったりしたわけではない。ただ、そっとそばにいただけ。それでじゅうぶんだった。身寄りがなく、しかも死人のわたしにとっては幸福だったんだ。それにきみは、勝手のわたしの部屋をのぞいたり、部屋を散らかしたりもしなかったし。  子猫、死んでしまったね。本当に残念。もしかすると、自分が死んでしまったということに、今は気付いていないかもしれない。わたしも最初のうち、自分が殺されたことに気付かず、普通に生活を続けているつもりだったから。  でも、子猫もやがて、自分が死んだことに気付くことにちがいない。そしてきみのもとを去ると思う。でも、その時が来てもあまり悲しまないでほしい。  わたしも、子猫も、自分が不幸だとは思っていない。確かに、世の中、絶望したくなるようなことはたくさんある。自分に目や耳がくっついていなければ、どんなにいいだろうと思ったこともある。  でも、泣きたくなるくらい綺麗なものだって、たくさん、この世にはあった。胸がしめつけられるくらい素晴らしいものを、わたしたちは見てきた。この世界が存在し、少しでもかかわりあいになれたことを感謝した。カメラを構え、シャッターを切る時、いつもそう感じていた。わたしは殺されたけど、この世界が好きだよ。どうしようもないくらい、愛している。だからきみに、この世界を嫌いになってほしくない。  今ここで、きみに言いたい。同封した写真を見て。きみはいい顔をしている。際限なく広がるこの美しい世界の、きみだってその一部なんだ。わたしが心から好きになったものの一つじゃないか。                                        雪村サキ』  家中を歩きまわっていた子猫が、ついに彼女を見つけられず、ぼくの足にまとわりついていた。ぼくはしばらくの間、子猫が喜びそうなことをして、元気の出るような声をかけた。  夏休み入っていたので、学校へ行く必要はなかった。今日は掃除をし、選択をしよう。その前にカーテンを開き、窓を開けて風を入れよう。  縁側に立ち、窓を見ると、夏の陽光に草木は輝いている。はるかに高い空、雲が立ち上がり太陽に顔をかすめている。家庭菜園のトマトは赤く、水滴をつけてきらきらと光っていた。  半年前、この世界に彼女は生きていた。  大きなカメラを首からさげて、途方もなく長い小道を彼女が歩く。両側には草原が広がり、一面が緑色。風は温かく、運ばれる匂いに心が浮き立つ。歩みはまるで空気のように軽く、口元は自然にほころぶ。瞳に少年の無邪気さを宿し、高く顔を上げてこれから起こる冒険を待ち受ける。道ははるか遠く、青い空と緑の大地が接するところまで続いている。  ぼくは深く、心のそこから彼女に感謝した。  短い間だったけど、ぼくのそばにいてくれてありがとう。